日々、書く仕事

2018年からライターへ。ずっと心の中で思い続けてきた「書く仕事」がしたいという気持ち。これまで遠まわりもたくさんしてきたけど、本音で生きることに決めました。

娘とわたし、その後の想い

前回、夜中にひっそりと娘とわたしのことを書いたブログが、いろんな方にみていただくこととなりそれがとてもうれしく感謝しております。

 

昔からわたしは人へ相談するよりも、書くことで気持ちを静めたり、答えが降りてくるのを待ったりしていた。それはそれでとても効果のあるやり方だと思っているけれど、ブログやTwitterで発信することで意見がもらえるということは、その物事がグンと広がりを持つような感じがしてありがたいことだなと感じた。

 

だからこそ、伝え方によっては誤解を生むこともあるから言葉選びは気をつけなければという勉強にもなる。

 

若い頃は、どんな人へでも心を込めて接すれば思いは伝わるのではという奢った考えがあった。自分中心だったのだ。

 

歳を重ねてよかったなと思うことの一つに、世の中にはいろんな考えがあってそれぞれみな自分が正しいと思って生きていることを知った。

その中にはわたしももちろん含まれている。

だから、すべての人とわかり合うことはできない。ただ、すべてをわかり合うことができなくても想像力を駆使して、相手の思いに共感をすることはできるのではと思っている。

 

そんなことを考えながらも、わたしは娘との関係がわかっていなかった。最近とくに、わたしにべったりになっていた娘。保育園へ行きたくない、ずっと一緒がいい。食べるタイミングも歯を磨くタイミングも、湯舟へつかるタイミングもすべて一緒がいい。寝るときはこっちをずっと見ていてほしい。どこにもいかないでほしい。と。

 

すべて付き合いきれない!と伝えてもますます想いは膨らむ様子。保育園では問題なさそうだから、家でさみしい想いをさせているのかなと、過保護が続いていた。(わたし自身もしんどくなり不満がたまる)

 

娘の思いは、娘なりの正義を貫く大事な気持ちだと、それにこたえてあげなればと思っていたけれど、わたしにだって事情がある。

 

ただ、わたしの心のどこかで、「ひとりっこだからさみしいのか」という思いで娘の気持ちにこたえていた部分がある。

 

そこに気がついて、はっとした。かわいそうなんて思われている娘がかわいそう。わたし自身他人から同情をされることがなによりもつらいことだった。昨日はそのことに気がついて驚いた。

 

娘はどうかわるかはわからないけれど、わたしの気持ちをかえることは今すぐにでもできそうだ。こどもに対しては、どこかもう一人の自分のような気がしてしまい無理強いさせてしまう部分があったのかもしれない。