日々、書く仕事

日々、あれこれ考えていること

恐怖心のもとが知りたくなる

ひとつ前のブログで、占い師さんに手相やタロットを見てもらった話を書いた。今回はその続き、というか自分の中での整理もかねて、もう少しだけ掘り下げてみたい。

 

冒頭、占い師さんに「あなたは周りに気を遣いすぎる性格」と言われた。正直なところ、多くの人はそういう傾向はあるだろうし、気を遣うのが社会的なマナーみたいなものがある。

 

なので、それがまずどれくらいのレベルなのか聞いてみたところ、「どちらかというとやりすぎ」というストレートな回答がきたため、思わずふっと笑ってしまった。そうか、やりすぎか。

 

あらためて、わたし自身を振り返ってみると、気を遣うというよりも、相手の表情の変化を敏感に感じ取ってしまうのかもしれない。

 

普段とまとっている雰囲気が少しでも違うなと感じるといてもたってもいられなくなる。たとえ相手が言動に出していなくても、些細な苛立ちや張り詰めたものをわずかにでも察知してしまうと、自分に向けられたものでなくても身構えてしまう。

 

幼少期にこわい思いをしたわけでも、絶えず怒られてきたわけでもないのに、なぜこれほど恐怖心を感じやすいのか。それは以前から謎だった。

 

手相によると、わたしの恐怖心のようなものは先祖から受け継がれているものらしい。だから、「自分のせいだとは思わなくてもいいし、恐怖を感じるところから距離をとったらいいだけの話ですよ」と、占い師さんはやさしく教えてくれた。

 

それはその通りだと思う。ただ、やっかいなのは自分の性格、性質の部分である。わたしは好奇心がつよすぎる。それも痛みや恐怖といったマイナスな感情に対して。

 

なので、恐怖心を覚えたら、なぜそれを自分が感じるのか理由が知りたくなり、大元の部分に安易に近づいてしまうのだ。人が相手だったとしたも、ちゃんと向き合ってみたいと思ってしまう。当然、傷つくことの方が多い。それに関しては、まったく学びがない。

 

けど、何度も繰り返してしまう自分自身に大きな変化があったとしたら、やはり昨年から格闘技をはじめたことだろう。「そうしないと、あなた痛い目みるよ」というメッセージを直感的に感じとったのかもしれない。

 

格闘技はまったくの無知だったのだが、ジャブが相手との距離感をはかるものだと知ったときにびっくりした。そうか、ジャブさえしっかり出していれば、相手との距離感をミスる確率は減るのか。それを知れただけでも、格闘技をはじめてよかったと思った。

 

なんて話を占い師さんにすると、「それはすごいですよ」と拍手が送られた。ちゃんと自分の弱点がわかっているのは偉い、と。

 

そう、恐怖心と好奇心がつねに一体化しているのがわたしの弱点だ。占い師さんは、そんなわたしの性質を見抜き、極力、ひとりのリラックスの時間は意識的にとるようにと教えてくれた。温泉なんて、ベストじゃないですかと。

 

自分の性質を変えるのはかなり難しい。けれど、その後のフォローを知っている、知らないだけで雲泥の差があるだろうな。今回の手相をきっかけに少しだけ自分の取り扱いがうまくなれそうだなと思った。

 

喫茶店での手相占い

近所の喫茶店で占い師が来るという情報を聞きつけて行ってきた。プロに見てもらうのは初めてだ。と、言おうと思ったけれど、思い出した。以前にも一度、見てもらったことがあった。

 

それは、本屋さんのイベントでのこと。手相の本を購入した人には、特典として簡単な手相を占ってくれるというものだった。

 

26歳だった当時、特別、手相に興味があったわけではないが、体調が思わしくない日がずっと続いていたため、少しでも楽になりたい、何かヒントをもらえればと思い、緊張しながら列に並んだ。

 

やっと順番が回ってきた。どきどきしながらどんなふうに占ってくれるのだろうと期待していると、言われたのはひと言。

 

「あなたは手にいっぱいしわがあるから、神経質ですね」と。

 

その後は、混んでいるという理由で、はいはいと軽くあしらわれるように放り出されてしまった。なんだかとっても悲しくなってしまって、それ以来、占ってもらうには心の準備が必要だと痛感していた。

 

今回も同じこと言われるのかなと思っていたところ、案の定、「あなたは周りに気を遣いすぎる性格だ」と言われた。やっぱりね。そこは変わってないのか。「だから、組織に属するのは向いていないんですよ」とのこと。自覚あり。

 

「実はわたし、今フリーランスで働いているんですよ」と伝えると、占い師さんの表情が一気に明るくなった。「そうなんですか。なるほど、それは、正しい判断。むしろその方が運気がいい」と。

 

さらに、「あなたの場合、左手の持って生まれたものもまあまあいいけれど、右手に努力の証が見える。もう頑張らなくっていいです」とまで。そんなこと言われたら、逆にこっちが「そうなんですか」と驚いてしまう。

 

「ここを見て。右手に二重の頭脳線があるでしょう。すごく器用。あなたは1つの道よりも、もう1つ道をもったほうがうまくいく。しかも運命線を見ると、他者から引き出してもらったほうがいい。今後、ビジネスパートナーが出てくるんじゃないかな」と。

 

「わたしライターなんですが、もっと取材をしたいと思っているんです」と伝えると、「自分からいくよりも待ちのスタンスの方がいい」と言われた。

 

本当にそうなの?

この時代に待ちのスタンスで大丈夫なの? 

と、思わず心の声が漏れ出る。

 

じゃあ、今度はタロットカードで占ってみようという流れになった。

 

すると、出てきたカードは、自分からいくとうなだれているポーズの絵が出てきて、待ちのスタンスでいると悩みながらも結局、うまくいくよ、のカードが出てきた。笑ってしまう。

 

えー、本当にそうなのかな。信じていいのかな。と、思いつつ、20代の頃よりもわたしがあーだこーだとずうずうしく言えていることに気づいて、あの神経質な若者がこんなたくましくなっているよ、だから凹まなくって平気だよと伝えたくなった。

雨の音と思わぬ原因

土曜日。外は雨がざーざーと降っている。梅雨のおもだるい感じは苦手なのだけれど、誰もいないリビングでPCに向き合っていると、自分だけ隔離されているような気持ちになる。いやな感じではない。雨の音は思いのほか心地よく、こんなふうに感じとれることが久しぶりでうれしくなった。先週はずっと体調がわるかった。自分のなかでどんどん体調が崩れていくのを感じて、不安になりつつ、中年の身体では体調が戻るのに相当時間がかるだろうなと、どこか冷静にとらえている自分もいた。

 

今週の月曜日、とりあえず血液検査をしてもらおうと近所の内科に足を運んだ。わたしが「これって更年期症状のはじまりですかね」と相談すると、「46歳でしょ、それはちょっと早いんじゃないかな」と、首をかしげる。詳しくは婦人科で調べてごらんとのことで、基本的な血液の検査と甲状腺ホルモンの値を調べることとなり、お願いをする。結果は来週。

 

冷えがひどくてかゆいというと、漢方が処方された。頭皮のかゆみを相談すると「最近、シャンプー変えてない?」と聞かれる。いやいや、シャンプーでこんなに頭がきゅーとひきつるほど圧迫されるのかなと思いつつ、振り返ってみると、思い当たるふしがあった。娘がTikTokをみて「ほしい」といったシャンプーがあり、購入するも、娘には合わず。ちょっと高価なものだったので、もったいないからわたしが使い始めていたのだ。香りもよかった。

 

それが3月ぐらいだったような気がする。頭皮に違和感を覚えるようになったのが4月に入ってからで。「ああ、そういえばシャンプー変えてました。そうか、それが原因なんですかね」というと、医師は「そうかもね」と。そして洗いすぎも原因になるんだよといった。以前、ある女性が更年期障害で頭皮が尋常じゃなくかゆくなったと聞いていたから、てっきりホルモンの仕業なのだとばかり思っていた。それしか考えられなかった。

 

帰りがけ、敏感肌用のシャンプーとリンスを購入。月曜の夜から使い始めて5回目、たしかに頭を抑えつけられる圧迫感が減ったような気がする、というのを初日から感じていた。本当にシャンプーが原因だったのか。まだ、頭皮の乾燥は続いているし、「はい、治りました」という感じではないのだけれど、先週とは明らかに違う。漢方があったのか、体の冷えもちょっとだけましになった。それにしても、医師の一言がなければ、わたしは今も頭皮に合わないシャンプーを使い続けていたんだろうな。自分では気づけなかった。

それって、息する感覚ですか。

きのうXにこう書いた。

 

映画やアートが本当に好きな人は当たり前のようにそれらが暮らしに溶け込んでいて、私みたいに何かを得ようとしたり、意味を持たせようとしたり、忙しいと余裕がなくなって気づけば距離を置いてしまうのとは次元が違った。なんだか恥ずかしい。自分にとって自然にできることをもっと大事にしよう 

 

これは本当にそうだなと、驚くほど腑に落ちて、自分のなかにあらたなアプリがダウンロードされるくらいの、脳のOSが書き換わるくらいの、衝撃を受けた。

 

「自分ができるものだけをする」と、とらえてしまうと、新たな発見がなくなったり、挑戦する、がんばるといったこと自体、早々に諦めてしまいそうになるけれど、そういうことを言いたいのではない。

 

もっと根本的なところで、自分の向き不向きというのをあらためて考えたくなった。

 

忙しくて時間がない、もしくは身体が不調で余裕がない。そうなったとき、真っ先に暮らしから落ちていくものをあげると、わたしは「見る」ことだなと思った。

 

逆に残るのは「聞く」ことだと思った。音楽を聴くとか、人の話を聞くとか。そして最後まで忘れないのは「書く」ことだった。

 

書くことは、この仕事をする前から生活のなかでなくてはならないもの。ずっと何かを書いていた。書いて心を落ち着かせていたといっていいかもしれない。いつかなにかのネタになるかもしれない、とそんな予定もないのに書き留めていたようにも思う。生きるなかで書くことは、睡眠と同じくらい大事に思っていた。

 

昨日、関東に住む姉と電話でおしゃべりをしていたのだが、姉は昔からドラマをよく見ている。すごく忙しい毎日のなかでも週7~8作品を見ているのでびっくりする。ドラマはたのしいし、見ていて元気が出る。そうわかっているので、わたしも何かを見ようかなと思うのだが、いろんな物事に追われているとあっという間に日常から「見る」ということを忘れてしまう。姉とは正反対だ。

 

そんなに忙しいのによくドラマを追いかけられるね…とわたしは思うのだが、姉にとっては当たり前の日常で、むしろそのために生活を回しているようにも見える。わたしが「がんばってドラマ見よう」と考えている隙に、着々とドラマを見て、考察記事を読み、答え合わせをしながら日々楽しんでいるのだ。

 

振り返ると、この「がんばって〇〇しよう」の部分に多大なエネルギーをわたし自身、注いでいるのがわかる。決して嫌いなわけでも無理やりでもないのに。だから、たどり着いたことにほっとするし、また次にいこうとすると「また、あの山を登らないといけないんだな」と一瞬躊躇する。

 

このブログはまったくなにも考えていない。ハードルはない。一応、読まれるようにと書いてはいるけれど、正直、読まれなくても気にならない。書きながら書くことを考えているので、頭がすっきりするのだ。でも、なかには書けないと考える人も少なくないのだから、本当に向き不向きだ。

 

昨年から習い始めたキックボクシングにしても、まわりから格闘技に向いていると言われるのだが、自分でも向いているだろうなと思う。試合は出ないから、激しいトレーニングをして試合に臨んでいる人からすると生ぬるいと思われるかもしれない。それはそうだと思う。ただ、単純に練習すべてがたのしくて身体が喜んでいるのを感じる。走ることもそう。その瞬間、身心が解放されるのを感じる。つらいとかしんどいとかよりも。

 

映画もアートも知らない世界をのぞくのは楽しいし、好きな世界なのだけれど、どこか背伸びをして「がんばろう」がくっついていたかもしれない。もちろん、がんばること自体が好きなのだから、私自身の生き方としてそれも間違ってはいないのだろう。ただ、自分が操縦できるという感覚はまったくないから、すぐに目の前の世界から抜け落ちる。でも本当に好きな人たちは生活の中で当たり前のように組み込まれている。それはわかっていたけれど、自分が息をするようにしていることと、同じような感覚で映画やアートに触れているんだなと知ったときに、まったくの別次元の話なんだなと思ったのだ。

 

つまずく場所がちがう

常に「どうしたらうまく生きられるのかな」と、考えてしまう。

自分が不器用だと自覚しているからこそ、もっと器用に、もっとうまく日々を暮らす方法があるのではないか。それにはどんな心持ちでいたらいいのかと。

 

ときどきしんどくなってしまうのは、今の自分がうまい生き方を知らないだけ。そう40代半ばになっても本気で思ってしまうのだから、いつまで経っても世の中に慣れない。(以前、ブログに書いたが、世の中に慣れないからこそ、常に新鮮さがあるという面もある)

 

ある人に(わたしから見たら器用に生きている側の人)、どうやって気分転換をしているの?と尋ねてみた。すると、あまり意識したことがなかったかも、という返事がきた。「うーん、いつも何かしらしているからな」と。そして、落ち込んでなんかいられないときは漫才を見て笑うとのことだった。

 

そう、わたし多分、そういうことが聞きたかったんだと思う。

 

たしかに、その方は趣味がすごく多い。映画も音楽も美術館もよく行っているし、旅もよくされる。話を聞いているだけで、本当に忙しいのだ。

 

そうか、じゃあ、楽しみをつくって、好奇心を大事にして、好きなものを追いかければいいんだな。と思いがちだけれど、そんな容易な言葉で表すのはとても野暮なような気がしてならない。言葉で定義をするまでもなく、その方はもっと自然に、当たり前のようにされているのだから。

 

わたしはこれまで頭でっかちになって、「うまく生きられる方法」を追い求めていたのかな。世の中でがんがん動いていて成功している経営者と、うまくいくビジネス論ばかりを追い求めている人、どうみたって実践の数が違う。経験の質が違う。それはわかるのに、自分のこととなると見えていなかったな。

 

多分、うまい生き方を追い求めている限り、いくつになっても変わらないんだと思った。そもそもうまく生きている人は、そこでつまづかないし。うまくいっているとか、いってないとか、そういうことも考えていないように感じる。

ありがとうAudible

Audibleで小説を聴く習慣がついてから再び生活に物語が戻ってきた。それが嬉しい。

 

普段から「音声を聞く(取材音源)」ことに慣れてはいるが、物語を音だけで聴くには意外と体力がいると感じる。それに話に集中し、脳内で文脈を追っていくというのは結構、器用さも求められるのかもしれない。と、いま手元の小説を目で追いながらそう感じた。

 

視覚で文章を追った方が記憶に残るのは確かだ。「じゃあ、やっぱり本は読んだ方がいいんですね」と聞かれたら、完全にイエスしかない(わたしはね)。本から何かを学ぼう、知識を得ようという思いがあるのなら、一文字ずつ丁寧に目で追っていき、付箋を貼り、線を引きながら読んでいくのが一番だろう。

 

けれど、別にいま、資格の勉強をしているわけではないのだ。ただ、単純に現実世界から離れて、違う世界をのぞきたい。そうやって旅に出かけるような感覚を本に求めている人にとってはAudibleは最高です、と伝えたい。

 

現にこの2か月の間に、6冊小説の世界を味わえた。時間のあった20代の頃は2日に1冊ぐらいのペースだったから、誇れる数ではないのは重々承知。けれど、最近はまったく小説から離れていた身としては、身近で温泉が湧きはじめたくらいのありがたさなのだ。

 

わたしは2016年に今のマンションを中古で購入したが、その理由の一つは図書館がすぐ近くにあったことだった(のちに移転をしてしまうのだが)。本から離れたのは家から図書館が遠ざかったせいだと思うようにしていたけれど、そんなこと言ってられない。というより、いつでも手のひらに膨大な量の小説があると思うとわくわくする。

 

限りある毎日のなかで、どれくらい物語に触れられるだろう。そんなことを考えるのも楽しい。さて、次はどんな旅に出かけようか。

求められるのはリアルな生々しさ

Xなどでは対面取材を強化したいと書いているが、実際今のわたしのメインは音声からの記事化の仕事だ。AIで記事化の仕事はなくなるかなと思いつつ、現時点ではありがたいことに発注をいただいている。(もちろんいつかなくなるだろうという覚悟はしている)

 

きのう書いた記事(無記名)は、男性育休取得の本音を匿名で語ろう的な内容だった。世の中的に男性だって育児に参加するのはいまや当たり前。とはいえ、3か月間がっつり育児休暇を取得して本当に出世に響かない?まわりはどう思っているの?お客さんに迷惑はかからない?自分の理想とする生き方と家庭で求められる父親像、どううまく折り合いをつけているの?的な話ですごく面白かった(記事が特定されないように言い方を変えています)。あえて匿名にしながら、けれど2時間ほどのロングインタビューというのも挑戦的で、こういう企画を通す編集部はすごいなと思う。

 

リアルに書いてほしいと言われてこれはもう腕まくりの案件です。というか、すべてにおいて腕まくりなのだけれど。もっとリアルに、もっと生々しく、表現としての一つである「文章」をしっかり見せられるライターになりたい。

連載はじまる

わたしが通っている道場には個性豊かな人たちが多いため、いつか取材のエッセイ記事を書いてみたいなと思っていた。noteで書くか、どうするか。そんな気持ちを抱いていたところ、道場の代表から公式ブログで掲載してみたらという話をいただいた。(ライターとしてわたしのブランディングにもなるしと…嬉しい)

 

後日、代表に正式な企画書を提出した。インタビュー記事を出すことでどんな効果が期待できるか。PR色にせず、人物の魅力を打ち出すこと。新規会員の獲得はもちろんだけれど、わたしはそれよりも「自分が通っている道場ってこんなにすごい人たちがいるんだ」と、家族や友人に語れるような、そんな記事を出したいということを伝えた。

 

今の仕事と並行して記事を書くとなると、なかなか時間をつくることは難しいかもしれない。けれど、企画からすべて自分で手掛けられるとなると、すごく勉強になる。なんせ、ワードプレスへの入稿なんて6年ぶりくらいにしたので。編集さん側の大変さもわかったのもよかった。そんなこんなで先日無事に、第一弾が公開された。ほっとした。ぜひ、のぞいてみてくださいね。

https://seikukai.co.jp/blog/20260528/

 

 

 

急所への恐怖と無敵なところ

キックボクシングで急所を狙う練習をした。みぞおちと右肋骨下の肝臓部分。下から突き上げるように(中指の第二関節あたりに力を入れる)、ノックするように打つらしい。練習なのでコツンとする程度だが、急所に入れば「ぐっ…」と体を折りたたみたくなる。にぶい痛み。試合ではこうしたにぶい痛みが積み重なっていくと致命的になるとのこと。わかる。体がだるくなる。

 

当然だが、日常のなかで相手のみぞおちを連打するなんて経験はしたことない。というか、そんな状況に陥るような危険から縁もなく生きてきた。(これまで生きてこれたといった方がよい?)だから、どれくらいの力で打つものなのかわからない。コツンと打ってみる。もっと強くでいいよと言われる。

 

少し力を入れてコツンと打つ。いや、もっといける。そんな繰り返しで、急所に入ったのか「ぐっ…今のは効いたな。続けていいよ」。コツン、「がっ…」。あ、すみません。申し訳なくなって、とっさに「今の痛さは、10のうちどれくらいですか?」と聞くと「3ぐらいかな…」。じゃあ、まだまだいけそうですね。なんて会話を隣で聞いていた先生が、その質問はライターらしいと言って笑った。平和だ。

 

一方、わたしはなぜか左太ももに強めのキックを受けてもあまり痛みを感じないことに気づく。「全然、痛くない。もっと蹴っていいですよ」「もっといいですよ」と。右肝臓付近の急所に対しては、恐怖で無意識に体を閉じてしまっていたのに。強いじゃん、太もも。なにかいいことあるかな。

とにかく、人の話を聞くことだろうね。

先日、大手芸能関係の経営にかかわったのちに、現在は地域の行政にかかわっている方とお話する機会があった。その方をAさんとしよう。きっかけは次世代教育をテーマとした講演会。そこでは仏教系大学の要職をつとめる方のお話もあり、とても勉強になる時間だった。

 

講演会後の懇親会に参加したのは15名ほど。そのうち6名くらいはもともとつながりがある方たちなので、すごくアットホームな雰囲気のもと、とてもたのしい時間を過ごした。

 

そして席替えでAさんと真正面の席になったのをこれ幸いと、わたしは「人を見る目はどうやって育てたらいいか」という質問をしてみた。日本でもすごく有名な俳優さんのデビュー時にもかかわってきた方だ。本当にたくさんの人たちを見てきたからこそ、どんな答えが返ってくるだろうと耳を澄ます。

 

すると、Aさんは「とにかく、その人の話を聞くことだろうね」と言った。もっと具体的に「〇〇を見ろ」とか「〇〇の人は信用できる」といった話が出てくるとばかり思っていた。が、そうじゃなかった。とにかくその人を知らないとわからない。知るためには聞くしかないじゃない、といった感じでフランクに答えてくれた。

 

普段、インタビュー記事を書くとき、いかに相手に話してもらえるかを考えるから、その話はすぐに腑に落ちた。Aさんは立場的にはトップの位置にいながら、いろんな人の話を聞かれてきたんだな、だからわたしの話にもたのしそうに耳を傾けてくれるのかと心温まる。

 

じゃあ、もう1つと。これも聞いてみたかった。「若くしてデビューした子が、何年かすると雰囲気が変わったように見える人もいる。芸能の世界にはいろんな人がいるから生き残るのは相当大変だなと想像できる。そうした厳しい世界の中で、生き残る人はどんな人なんですか?」と。

 

それにもAさんはまっすぐ答えてくれた。「もちろん、いろんな人の意見に左右されてぶれてしまうのはしょうがない。そういうのはよくある。ぶれてもいいんだけれど、でも生き残る人には芯のようなものがあるんだよね。自分を持っている。〇〇(俳優名)も世間では天然なイメージがあって、たしかにそうした面もあるのだけれど、でもそうじゃないからね。

 

他人なんて関係ない、関係ない。自分がやりたいことがあれば手をあげる。でも、いまの日本はセクハラだ、なんだかんだあるから、そうやって自分を守っているようで、同時にチャンスを逃していることも多いからね」と。

 

生き残る人には、芯がある──。

 

わたしはなんでもチャンスがあればやってみたい!という気持ちは学生時代からあった。決して目立ちたいわけではなく、知らないことを知るのが好きだからだ。でも、たしかに、企業に勤めているとき、自分が手をあげることで周りにどんなふうに思われるのかと、気にしてしまうこともあった。

 

なにがあっても最後までなくならない芯のようなもの、わたしにはあるのだろうか。そんなことをちょっと考えてみたけれど、それはよくわからなかった。けど、きっとなにかあるだろうという漠然としたものを信じようという気持ちが、案外、芯になるのかもしれない。