きのうXにこう書いた。
映画やアートが本当に好きな人は当たり前のようにそれらが暮らしに溶け込んでいて、私みたいに何かを得ようとしたり、意味を持たせようとしたり、忙しいと余裕がなくなって気づけば距離を置いてしまうのとは次元が違った。なんだか恥ずかしい。自分にとって自然にできることをもっと大事にしよう
これは本当にそうだなと、驚くほど腑に落ちて、自分のなかにあらたなアプリがダウンロードされるくらいの、脳のOSが書き換わるくらいの、衝撃を受けた。
「自分ができるものだけをする」と、とらえてしまうと、新たな発見がなくなったり、挑戦する、がんばるといったこと自体、早々に諦めてしまいそうになるけれど、そういうことを言いたいのではない。
もっと根本的なところで、自分の向き不向きというのをあらためて考えたくなった。
忙しくて時間がない、もしくは身体が不調で余裕がない。そうなったとき、真っ先に暮らしから落ちていくものをあげると、わたしは「見る」ことだなと思った。
逆に残るのは「聞く」ことだと思った。音楽を聴くとか、人の話を聞くとか。そして最後まで忘れないのは「書く」ことだった。
書くことは、この仕事をする前から生活のなかでなくてはならないもの。ずっと何かを書いていた。書いて心を落ち着かせていたといっていいかもしれない。いつかなにかのネタになるかもしれない、とそんな予定もないのに書き留めていたようにも思う。生きるなかで書くことは、睡眠と同じくらい大事に思っていた。
昨日、関東に住む姉と電話でおしゃべりをしていたのだが、姉は昔からドラマをよく見ている。すごく忙しい毎日のなかでも週7~8作品を見ているのでびっくりする。ドラマはたのしいし、見ていて元気が出る。そうわかっているので、わたしも何かを見ようかなと思うのだが、いろんな物事に追われているとあっという間に日常から「見る」ということを忘れてしまう。姉とは正反対だ。
そんなに忙しいのによくドラマを追いかけられるね…とわたしは思うのだが、姉にとっては当たり前の日常で、むしろそのために生活を回しているようにも見える。わたしが「がんばってドラマ見よう」と考えている隙に、着々とドラマを見て、考察記事を読み、答え合わせをしながら日々楽しんでいるのだ。
振り返ると、この「がんばって〇〇しよう」の部分に多大なエネルギーをわたし自身、注いでいるのがわかる。決して嫌いなわけでも無理やりでもないのに。だから、たどり着いたことにほっとするし、また次にいこうとすると「また、あの山を登らないといけないんだな」と一瞬躊躇する。
このブログはまったくなにも考えていない。ハードルはない。一応、読まれるようにと書いてはいるけれど、正直、読まれなくても気にならない。書きながら書くことを考えているので、頭がすっきりするのだ。でも、なかには書けないと考える人も少なくないのだから、本当に向き不向きだ。
昨年から習い始めたキックボクシングにしても、まわりから格闘技に向いていると言われるのだが、自分でも向いているだろうなと思う。試合は出ないから、激しいトレーニングをして試合に臨んでいる人からすると生ぬるいと思われるかもしれない。それはそうだと思う。ただ、単純に練習すべてがたのしくて身体が喜んでいるのを感じる。走ることもそう。その瞬間、身心が解放されるのを感じる。つらいとかしんどいとかよりも。
映画もアートも知らない世界をのぞくのは楽しいし、好きな世界なのだけれど、どこか背伸びをして「がんばろう」がくっついていたかもしれない。もちろん、がんばること自体が好きなのだから、私自身の生き方としてそれも間違ってはいないのだろう。ただ、自分が操縦できるという感覚はまったくないから、すぐに目の前の世界から抜け落ちる。でも本当に好きな人たちは生活の中で当たり前のように組み込まれている。それはわかっていたけれど、自分が息をするようにしていることと、同じような感覚で映画やアートに触れているんだなと知ったときに、まったくの別次元の話なんだなと思ったのだ。